2016年も、あとわずかです。

今年も、幼児や小学生から社会人まで、「いじめ」になやむ案件が数多く報道されました。

「いじめ」って何でしょうか。

文部科学省の定義は平成18年に改訂されていますが、その新定義は次の通りです。

個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。

 

「いじめ」とは、
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」
とする。

 

なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 

  • (注1)「いじめられた児童生徒の立場に立って」とは、いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。
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  • (注2)「一定の人間関係のある者」とは、学校の内外を問わず、例えば、同じ学校・学級や部活動の者、当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など、当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。
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  • (注3) 「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。
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  • (注4)「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味する。
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  • (注5)けんか等を除く。

改訂前は、『断続的に』という言葉がありましたが、それは外されています。つまり1回でも心理的・物理的な攻撃を受け、精神的な苦痛を与えられれば、それは「いじめ」になります。

さて、今回私が提案したいのは、もし『いじめ』を受けているようなお子さんがいらっしゃるならば、それを中学受験のエネルギーに変えませんか?ということです。

私立中学というのは、本当に素晴らしい学校が多く、これまで小学校でいじめを受けていたようなお子さんの居場所がちゃんとあります。

これは、「受験」というものを通して、ある程度「同じような環境・育ち」のお子さんが集まることで成り立っているのではないかと思います。

小学校は、幅広い層のお子さん(層というのは、家庭環境や知能、おうちの方の考え方など)が集まっています。それは、公立でも私立でも同じです。

『いじめ』というのは、「話が合わない」、「気持ちが通じ合わない」ところからスタートしますので、中学受験で集まった生徒は、同じような環境で育ち、成績も保護者の考え方も大きなブレのない環境は『いじめ』そのものが行われにくいのではないでしょうか。

「同じような生徒が集まる」そういう環境がいいとか悪いとか、いろいろなご意見はあるとは思いますが、受験を通して集まった集団ならばだれか少なくとも一人は、「話があう」とか「理解しあえる」友達と出会える確率が高いと思います。(統計はとっていません、主観ですが)こういうことは、これまで『いじめ』を受けたことのある子どもにとって、とっても大切なのです。

「誰かが理解してくれる」、最悪そういう友人ともし出会うことができなくても、私立中学の先生方はきちんとお子さんを理解してくれる方がたくさんいらっしゃるでしょう。そこから、精神的に強くなればいいのです。

もちろん、公立の先生方も素晴らしい方がいらっしゃるとは思いますが、気持ちはあっても公立の先生方はなにかと大変お忙しく、生徒一人一人に時間をかけてじっくり向かい合うことが難しいのでしょうね。

いまもし、精神年齢が高すぎて学校では話の合う子がいないという小学生のお子さんがいらっしゃったら、偏差値の高い学校を見せてあげましょう、そこには必ず小学校時代同じような環境で育った生徒さんがいます。

特に、灘・甲陽でよく聞かれるのは「小学校時代、話の合う友達がいなかったから、友達に話を合わせていた」という言葉です。そういう子がごろごろいます。そういう子は灘・甲陽に入れば心の底から話し合える、分かり合える友達に出会えます。尊敬できる友達がたくさんいます。哲学的な話もできる友人がいます。

だから、「そんな友達に会うために今、中学受験の勉強をがんばろうよ。」と、励ましてください。

勉強だけでなく、音楽の才能に恵まれたお子さん、スポーツが得意なお子さん、絵画・工作が素晴らしいお子さん、その能力がずば抜けていればいるほど小学校では孤独です。でもその仲間が、中学受験をすることによって見つけられることが多いのです。友だちと一緒に切磋琢磨できる場所を、中学受験をすることによって与えてあげてくださいね。

もちろん、『いじめ』の問題は、中学受験することで100%解決するとは言えません。

しかし、何もしないより、どこかお子さんの輝ける場所を保護者の方が一緒に探してあげることは無駄ではないと思います。

『いじめ』から自分の命をたってしまう、そういう悲しい報道が来年はずっとずっと減りますように。なくなりますように。